goodbye,youth

増子央人

2019.09.06

猛暑日が続き出した7月の後半、東京で友だちと飲んでいた帰り道、終電に乗り山手線でホテルの最寄りの目黒駅へ向かう途中、電車内で軽い乱闘騒ぎのようなことが起こった。電車が恵比寿駅に着いたとき、窓際に立っていた30代ぐらいの赤いジャージを着た金髪男が、車内で酔っ払って座りながら熟睡していたサラリーマンのカバンを盗んでそのまま電車を降りようとした。それをドアの近くに座っていた男が「ちょっと待て!」と言いながら止めて、金髪男は車両内に戻され、ドアは閉まり、中は一瞬静まり返り、車両内にいた人ほぼ全員の視線が一点に集中した。「こいつ今盗もうとしたぞ!誰か警察呼んで!」と止めた男が言うと金髪男がその男に殴りかかった。電車は既に次の駅に向かって走り出していた。近くに座っていた女の人は立ち上がってその場から離れ、おれはそれを同じ車両の隣のドアの前で立ったまま見ていた。座っていた2人の男の人たちが立ち上がり、1人は警察を呼び、もう1人はそいつを止めようと間合いを詰めていたが、まるでボクシングの試合のような距離感と緊張感が、殴られた男と間合いを詰めたもう1人の男と金髪男の間に、というか車両内に広がり、いやそんなに紳士的な雰囲気では勿論なかったが、とにかく異様な空気が車両内に充満していた。金髪男がおれがいる方に背中を向けたとき、後ろで立ち上がっているのはおれだけで、おれが止めに行った方がいいのかもしれない、と思った。最初に殴られた男の人は殴られたからか少し怯んでいるように見えて、金髪男はまた殴りかかろうとしていた。背中を向けられているおれが後ろから押さえ込んだら金髪男は動けなくなる、そう思ったが、怖くて足が動かず、いや体格的に勝てないよな、そもそも押さえ込む上手なやり方を知らないし、なんてことを頭で考えているうちに、おれの後ろで座っていた男の人が立ち上がり、金髪男を押さえ込みに行った。金髪男は少し暴れて腕を振り解こうとしていたが力ずくで押さえられ、そのまま次の目黒駅まで何もできないまま降ろされ、駅に着いていた警察に取り押さえられていた。警察に押さえられる様を少し離れた場所から見ていると、周りにいた3人ぐらいの人がiPhoneでそれをずっと撮影していた。何だこいつらは、とそれに対して思ったが、見ているだけで何もできなかった自分は他人の事を言えるような立場ではないかと思い、酷く惨めになり、半ば放心状態のままエスカレーターを上った。泊まっていたホテルまで歩きながら、仕方がない、みんながみんなあんなに咄嗟に動くことなんてできるはずない、と、おれの後ろから金髪男を押さえ込みに行ったあの勇敢な男の人の背中を思い出しながら、必死に自分を肯定した。聴いていた音楽は一切耳に入ってこず、何回も何回もさっきまでの一駅間の出来事が脳内で再生された。

部屋に着き、同じ部屋のなおてぃにさっきまでの出来事を話した。あまりに心がざわざわして落ち着かなかったので、誰かに話したかったのだと思う。なんもできんかった、とボソッと言ってしまったとき、まるで自分が、自分は何もできなかったけれども少なくとも何かしなければいけないのだと思う正義感は持ち合わせている、と言いたい人のように思えて、いや実際にそうだったのかもしれない、そう話すことで、そういう出来事があって何も感じていないよりはマシだよと、少しでも情けない自分を他人に肯定してほしくて、そう話したのかもしれない、そしてなおてぃの反応から、そういう思惑を見透かされたような気が少しして、それが更に嫌になり、これ以上自分の中で自分が惨めな存在になることを恐れて、話すのをやめてシャワーを浴びた。1日の汗を洗い流すと、嫌な記憶だけが頭の中に残った。

今までにも何度か同じような経験をしたことがある。被害者が見ず知らずの人ではなく、友だちだったこともある。その度に足が動かず、毎回同じようなことを思っている。自分はとても弱いのだと、嫌なほど痛感する。昔憧れていたような、何の迷いもなく勇敢な立ち振る舞いをする映画や漫画の主人公のようにはなれていないのだと悟る。怖いものは怖い。カッコつけたい訳ではない。ただ自分のことを惨めだと思いたくない。自分だけが知っている自分の嫌な部分を増やしたくない。いつか足を踏み出せるようになりたい。