goodbye,youth

増子央人

2019.05.29

朝、いつものように家を出る20分前にiPhoneのアラームが鳴った。アラームを止めてApple Musicを開き、最近リリースされたALEX LAHEYの新譜を一番大きい音で再生した。髪の毛をシンクに突っ込んで全体を満遍なく濡らしてタオルで軽く水気を取りドライヤーで乾かした。いつもこうして寝癖を直している。髭を剃って歯を磨き、一口だけ水を飲んで家を出た。外は穏やかに晴れていた。スタジオで録音した新曲を聞きながら早足でバイト先へ向かった。今日はバイトの後に親知らずを抜く予定があった。本当に嫌な予定だ。何度か、適当な嘘をついてキャンセルしようかと思ったが、これ以上この重大任務を先送りにすることは良くないとわかっていたので(一度嫌すぎて当日にキャンセルをしている)、なんとかキャンセルをしないまま歯医者に到着した。もう良い歳した大人なので公の場で感情を顔に出すことはほとんどない。たぶん。なので歯医者の前でも何食わぬ顔で口を開け口内に侵入する麻酔の注射針も無表情で受け入れるが、心の中では日本列島観測史上最大規模の台風が上陸し大雨洪水、海岸沿いは津波で大荒れ、街では風速100メートルの暴風が吹き荒れていた。勿論そんな大惨事は大人なので顔には出さない。しかし左手だけがキャパオーバーしたのか、その大惨事が少しだけ漏れ出てしまった。おれの左手は右手の親指と人差し指の間の少し柔らかい部分をこれでもかというぐらいにつねった。こっちの方が痛いですよ!本当の事件現場はこっちなんですよ!と左手は必死に体と脳を騙そうとした。その努力の甲斐あってか、歯医者の腕が良かったのか、まあ恐らく後者のおかげで、抜歯はあっという間に終わった。一瞬の痛みはあったが、そんなもの、右手の痛みに比べれば大したことなかった。右手にも麻酔を打ってもらった方が良かったのかもしれない。抜かれた歯を歯医者に見せてもらいそのサイズ感に驚いた。歯科助手の方がにっこりと笑って、これ持って帰りますか?と聞いてきたが、どう考えても必要なかったので、苦笑いをしながら断った。抜歯後の開放感は凄まじかった。日本列島観測史上最大規模の台風が去ったあとはその暴風が全ての雲を吹き飛ばし、見たこともないような青空が広がっていた。心の天気と比例するかのように、歯科医院を出ると外は気持ちのいい気候で、雲こそ少しあったが日差しは何にも邪魔されずに奈良の街を照らしていた。唇に少し麻酔が残っていて口の中で血の味がしたが、そんなことは気にならなかった。原付で帰っている途中、見たことのない路地を見つけたので、寄り道をして帰ることにした。狭い路地を抜けて、分かれ道が出る度に何となく良さそうな雰囲気の方へ曲がって行くと万華鏡喫茶店という喫茶店を見つけた。年季の入ったドア、汚れなのかそういう加工なのかくもっていて中がよく見えない窓ガラス、外観は雰囲気が良かったので、今度1人で行ってみようと思った。少し進むと知っている道に出たので、そのまま家へ帰った。今日はお酒を飲まないでくださいと言われたので、ひたすら本を読むことにした。途中ソファに座りながらうたた寝していたが、口の中の血が喉に入ってきてむせて起きた。一瞬何が起きたのかわからなかった。水で軽く口をゆすぎ、ベッドに移って今これを書いている。まだ血の味がする。部屋の照明に1時間後に切れるタイマーをセットしたので、今日はもう少し本を読んでそのまま寝落ちしようと思う。