goodbye,youth

増子央人

2019.02.05

桜の見えるあのベンチに置いてきた感情はもうしばらく戻ってきそうにない。父と捕まえに行ったカブトムシは虫かごから飛び出してもう戻ってこない。母は家に1人なのに今日もお味噌汁を作り過ぎる。校庭を一人で走っていた妹は、今日も一人で東京を走っている。初めて見上げた東京タワーには優しい人々の歴史が映っていた。おれにドラムを教えてくれた先生が勧誘してきたお金持ちになるための講習会は、真っ黒だったのか、真っ白だったのか、先生、お金持ちにはなれましたか?おれはまだドラムを叩いています。和歌山の海辺で見た夕陽は、見惚れるほどに綺麗だった。駅の近くのラブホテルに行くときに通りかかるあのお店はもうなくなっていた。そこの看板犬も勿論、いなくなっていた。久しぶりに実家の近くの犬に会ったとき、そいつはとても優しく近寄ってきて、おれの指をぺろぺろと舐めてくれた。長生きしてほしい。試合の日の朝は空気がいつもと違った。インターハイに出場できず、先輩たちの最後の夏は嘘みたいにあっけなく終わった。最後の挨拶でだいき先輩はみんなの前で初めて泣いた。声を出して泣いた。教室の外では蝉が鳴き、遠くの山の向こうには入道雲が背を伸ばして立っていた。おれたちは、必ず勝たなければいけないと思った。自分に負けそうになる夜が、たまにある。忍び寄る黒い影から身を潜めて、小さな小さな嘘の鎧でなんとか自分を守る。そんな自分が惨めになって、アルコールで記憶を薄める。記憶をなくして薄くなったあの夜の色は何色だったっけ。なあ、もういっそ、上京なんてやめてさ、2人でどこか遠くの田舎へ行こう。庭のある一軒家に住んで、そこで大きな犬を二匹と猫を一匹飼おう。仕事なんてきっとなんでもあるさ。なんとかなるよきっと。毎日ちゃんと働くから。帰ってきたら君はご飯を作って待っててくれればいいよ。きっと幸せだと思う。

戻らない日々を繋いで、季節の変化に一喜一憂して、赤い夕陽に見惚れながら、ぐるぐると同じ場所を回りながら、時計の針は進んで行く。上京の予定はない。