goodbye,youth

増子央人

2018.06.21

春になると毎年、高の原駅から学校までの道が桜で挟まれて、まるで新入生を歓迎しているかのようで、とても綺麗だった。夏が来れば、夏服のダサい半袖のカッターシャツが嫌で、クラスの中の何人かは冬服の長袖のカッターシャツを捲って学校に来ていた。夏休みは毎日のように部活で学校に行く奴らもいれば、髪の毛を染めてバイトに明け暮れる奴らもいた。夏休みが終わって二学期が始まると、文化祭の準備で放課後の教室が少し騒がしくなった。冬が来ると、隣のクラスの話をしたこともない可愛い子がブレザーの下にセーターを着て首元にマフラーを巻いて登校していて、何の関係もないのに少しドキドキしていた。

行事ごとがあれば、約束をしていたわけでもないのに、気がつけばなんでか毎回、水野といっしょにいた。球技大会で早々に負けたとき、グラウンドで決勝戦が行われている中、2人で体育館の裏の水道にホースを繋いで水の掛け合いをして遊んでいた。テスト1週間前になると吉村は決まって教室の机を繋げて、黒板消しをネットの代わりに、スリッパをラケットの代わりにして、卓球をしていた。なぜかおれはスラムダンクのオープニングの実写版を撮りたくなって、仲の良かった何人かでアニメの真似をしてケータイのカメラで撮った。確か赤木晴子役は隣のクラスで勉強していたちはるちゃんにやってもらった。赤木晴子役を誰にしてもらうかの話し合いが1番盛り上がっていた気がする。

文化祭では、水球部がこの日のためだけに練習をしてきたシンクロを披露した。友だちとプールサイドまで見に行った。ウォーターボーイズで聞いたことのある音楽が流れてきて、水球部の奴らが入場してきた。会場は満員、全力の笑顔で踊るむきむきの水球部の奴らはカッコよかった。でもおれたちはプールサイドでお客さんと一緒に手拍子をしていたマネージャーのことばかり見ていた。

文化祭の最終日にはグラウンドから打ち上げ花火が上がった。バスケ部だったおれは1、2年のときは体育館から花火を見た。打ち上げ花火が上がる一瞬だけ練習がストップするから有難かった。

2年の冬、鳥インフルエンザが流行って、色んなクラスが学級閉鎖になっていた。ウィンターカップ出場を決める県予選の決勝グループの最後の試合、確か相手は天理高校、それに勝てば全国大会に出場できるという試合の3日前ぐらいに、おれのクラスは学級閉鎖になった。学級閉鎖になると部活にも行ってはいけないので、試合会場に行くことさえ許されなかった。おれ以外にも、バスケ部の中で何人か学級閉鎖で試合会場に行けない奴らがいた。悔しくて仕方なかった。その試合にもし負ければ、3年で唯一冬まで残ってくれていたしゅん先輩が引退してしまう。おれの憧れの、1番お世話になった、しゅん先輩の3年間の最後に、おれは会場にすら入ることができないなんて、信じられなかった。考えに考えた結果、結局試合当日、おれはマスクをして100均で買ってきた伊達メガネをかけて帽子をかぶって会場へ向かった。試合前に会場に着いて、コートから少し離れた場所の二階席に座った。試合が始まって少しすると、二階の平城高校の応援席に、学級閉鎖になっていたはずのやつらが全員いた。みんな大声で騒いで応援をしていた。え?マジ?みんないるの?とても驚いた。でもみんな顔めちゃめちゃわかるけど大丈夫?ベンチにいる先生も絶対気付いている。恐らく先生は気付かないフリをしていた。厳しい先生がおれたちの前で校則違反を見ないフリをしたのは、それが最初で最後だった。真面目に変装なんかしていた自分が恥ずかしかった。マスクも帽子も伊達メガネも取って、声を枯らして応援した。

3年になって、素人で部活に入って唯一最後まで残っていた上辻が試合に出てジャンプシュートを決めたとき、ベンチにいたみんなで、まるでそのシュートでインターハイ出場が決まったのかと勘違いするぐらい、騒いで喜んだ。あのときは嬉しかった。

じっと目を見ておれの話を聞いてくれた池永先生は、もう転勤しているかもしれない。先生、平城高校なくなるらしいですね。まあ仕方のないことですよね。でも署名集めて、それを阻止しようとしてる人とかいるみたいですよ。学校がなくなっても、おれの頭の中にあることは、大人の事情や時代の移り変わりなんかでは絶対になくならないので、まあ別にいいかななんて思います。でもやっぱり少しだけ寂しい気もするので、なんとなくおれも署名しました。先生、もし今会ってもまたあんときみたいに話聞いてくれますか?別に肯定されなくてもいいです、あんときみたいに、じっと目を見て、最後まで話を聞いてくれたら、それだけでいいです。