goodbye,youth

増子央人

2017.09.17

長崎の街へ着くと、雨は弱くなっていた。台風とはすれ違いになっていたらしい。リハーサルが終わる頃には、外はすっかり晴れていた。雨上がりの長崎の街並はいつにも増してとても綺麗で魅力的に見えた。THE FOREVER YOUNGのライブで少し泣いた。あの人たちの音は、くにさんの言葉は、くにさんの目は、人の心ど真ん中に突き刺さってくる。"頑張れ"なんて何の捻りもないど直球の言葉をあんなに大きな声で叫ぶくにさんは、誰よりも真っ直ぐ、その言葉の強さを信じている。あの人は平気で、「今日はお前らのために歌うからよ」とかライブ前に言ってくる。ステージの上で「今日は友だちのためにこの歌歌う」って叫ぶ。何度もフロアで見ているおれに歌いながら拳をむけたり、目を合わせ笑顔を向けたりする。自分のために歌うと言っている人の方が、孤独でカッコよく見えるときがある。でもくにさんは馬鹿なぐらい真っ直ぐ、誰かのために歌っていると公言する。その真っ直ぐな青さに、おれはいつも背中を押される。心を動かされる。あんな人、おれは今まで出会ったことがなかった。くにさんは運転待機らしく打ち上げには出なかった。打ち上げ場所の居酒屋で出てきたピッチャーのビールが今まで飲んだ事ないぐらい不味くて、一杯も飲まないまま柚子サワーみたいな名前のお酒を頼んだが、慣れない味に酒はまったく進まなかった。ホテルに戻ってシャワーを浴び、ベッドの上iPhoneをいじっていると目が疲れてきたのでアラームをセットして寝た。

 

 

2017.09.16

朝起きると声がガサガサになっていた。おそらくもともと風邪気味だった喉に打ち上げで長時間ビールと大声という負担をかけたせいだ。自業自得だと思いながら、前の日の打ち上げ終わりにシャワーを浴びながらご機嫌で歌を歌っていた自分を恨んだ。大分の街を歩きドラッグストアを探した。入ったお店の薬剤師のおじさんにどの薬が即効性があって1番効くか聞いてみた。奈良からバンドで来てて、という話もした。オススメしてくれた薬を買うと、おまけで試供品の風邪薬を2つつけてくれた。その優しさで、風邪なんて治った気がした。リハーサル終わり、あまり喋らない方がいいと薬局のおじさんに言われたのでまた1人でとぼとぼ歩いていた。雨上がりの公園は腰をかけれるような場所がないからあまり好きじゃない。途中で大きな建物の屋根の下に石のベンチがあったのでそこに座っていた。気がつくとまた寝ていた。寒くなったので戻ろうと思い歩いていると良い感じの古着屋を見つけた。とても好きな感じだった。買いたい服が何個かあったがお金がなかったので我慢した。店の前にあったハコの中にデッキシューズが無造作に沢山入っていた。ハコには全部500円と書かれた紙が貼ってあった。もう役目を終えたのか、ただ処分されるのを待っているのか、くたびれて汚くなったデッキシューズはとても美しく魅力的に見えた。茶色のデッキシューズを一足買った。アメリカの土地を歩き回っていたのか、大分の土地を歩き回っていたのか、もしくは全然違うところか、まったくわからないが、これからは奈良の土地を、ツアーで回る全国の土地を、いっしょに踏み倒して行く。古着屋で靴を買うのは初めてで、そんなことを頭で想像しては、いやただ古着屋で靴買っただけやぞと自分で少し可笑しくなっていた。

ライブは無事終わった。終わって機材を搬出したあと、待ってくれていたお客さんと話をしていた。おれは喉が良くなかったので打ち上げには出ず、1人ご飯を食べてホテルに戻ろうとしていた。オススメのラーメン屋さんをいくつか聞いて、じゃあなと別れようとしたとき福岡から来たというお客さんがおれに傘をくれた。その子は、駅までならアーケードの中なので濡れないし、もしアーケード抜けても友だちといっしょに傘に入るから大丈夫と言って、ビニール傘を渡してくれた。別に大したことではないのかもしれないが、凄く嬉しかった。それだけで、誰かに親切ができるぐらいには気持ちが明るくなっていた。朝の薬局のおじさんといい、世界はこうして回っているんだなと思った。世界はこうして回るべきだと思った。駅前のラーメンを食べて、賑やかな土曜の晩の大分の街を歩いた。打ち上げに出ないとやっぱりなんだか少し寂しかった。コンビニでビールでも買って帰ろうかと思ったが、なんとなくやめた。ホテルに戻ってコインランドリーで服を洗い、忘れないように貰った傘をドアのぶにかけた。シャワーを浴びて壊れかけの加湿器の音の中明日に備えて寝た。

 

高3の文化祭

池永先生はおれの目を見てただじっと話を聴いてくれた。

学校を辞めたかずまは最後の文化祭に出ることは出来なかった。学校の決まりで生徒しか文化祭のステージに立つことは出来ない。それでも翔太は最後はこのメンバーでやりたいと強く言った。おれたちも翔太の意見と同じだった。おれたちはかずまをなんとか文化祭に出すための作戦を立てた。当日おれはもう1つのバンドで先にライブがあった。おれはそのバンドのメンバー全員分の衣装をあろうことか家に忘れてきてしまった。衣装は、白Tシャツをビリビリに破いてカラースプレーで適当に塗りまくるというものだった。なのでおれは自転車にまたがり学校の近くの百均に急いでTシャツを買いに行った。戻ってきたとき、見張りをしていた先生に外に出ていたことがバレた。どうやら外に出ることはダメなことだったようだ。文化祭の日ぐらいいいと思っていた。なぜか学年主任まで出てきて怒られた。授業ボイコットに値する、みたいなことを言われた。学年主任はかずまが辞めた理由そのものだった。かずまはそいつのことが大嫌いだった。おれもそいつのことが大嫌いだった。女子贔屓、セクハラの噂、かずまへの態度、18のおれたちが嫌うだけの理由がそいつには揃いすぎていた。そいつが「なんでおれをもっと頼らへんねん!」と熱い教師ぶった台詞をおれに投げつけた。まず相談してから買いに行け、という意味だ。頼ろうなんて思えなかったのは誰のせいだと、その場で叫びたかったがおれにそんな度胸はなく、心の中でもやもやする気持ちを抑え込んでいた。こいつはずっと何を言ってるんだ、誰のせいでかずまが辞めるまで追い込まれたと思ってるんだ、なんで今こんな奴に怒られているんだ、わからないまま悔しくなって目を睨むことしかできなかった。目頭が熱くなって涙が出そうになったのを唇を噛んで堪えた。もしかしたら少し流れていたかもしれない。それぐらい悔しかった。偽物の汚れた正義を平気な顔でぶつけてくるそいつが憎かった。説教は終わった。その様をずっと見ていた池永先生は心配してくれたのか職員室の前の廊下におれを呼び出した。限界地点まで悔しくなっていたおれはそのときになぜ学年主任を頼ろうと思えなかったのか、あいつが言っていたことがどんなに矛盾しているかの話をした。これを学年主任に直接言えなかったのがおれの弱いところだ。池永先生なら怒らず聞いてくれるだろうという根拠のない大きな自信があった。話ししている途中で、堪えていた涙がついにボロボロと瞼から流れ落ちていった。どういう感情かさっぱりわからなかった。教師の前でそんなに泣いたのは初めてだった。池永先生はそんなおれに「本当に困ったときは、おれに言いにこい。絶対助けるから。」と言った。その優しい言葉に包まれたような感覚がして、また涙が出てきた。

1つ目のバンドの出番があったのでおれは心が落ち着かないまま中庭のステージ袖に戻り、買ってきた白Tシャツをメンバーと予定通りビリビリに破り、カラースプレーで塗りたくった。それがカッコいいものだったかどうかは置いておくとして、破きすぎてほぼスカーフになった白Tシャツをおれは首に巻き(この時点でスカーフ)、ライブをした。
出番が終わり、その何バンドかあとにもう1つのバンドの出番が控えていた。

待っている間、ずっと考えていた。本当にかずまを出していいのか、もしバレたらおれたちの代でバンドが文化祭で演奏することができなくなるかもしれない。バンドをしている生徒たちは何らかの校則違反で謹慎処分を受けていた者が歴代何人かいて、教師からあまり良い目で見られていなかった。それに加えておれのさっきの失態だ。少し怒られたぐらいでおれは臆病になっていた。時間がない、どうする、と悩んでいたときついさっきの池永先生の言葉を思い出した。今が本当に困ったときなんじゃないか。あの人なら、おれの話を聴いてくれる。ほんの10分ぐらいの会話で、おれはそのことを確信していた。おれは今まで考えもしなかった、"教師にかずまといっしょにステージに立つ許可を得る"という選択肢をとろうと思った。急いでメンバーみんなに事の経緯を話に行った。優しいメンバーは、少し不安な表情を浮かべながらみんな納得してくれた。近くのイオンで待機していたかずまにもメールで伝えた。もともとこの作戦には現役で生徒のおれらにかかるリスクの方が大きいと思っていたかずまもすぐに納得してくれた。もう出番が迫っていた。おれたちは急いで池永先生を探した。二手に別れて校舎中を走り回った。職員室には既にいなかった。中にいた先生に池永先生がどこにいるかを聞くと2ヶ所ぐらい推測で教えてくれた。時間がない。急いで理科準備室に行きドアを開けた。白衣を着た池永先生が驚いた顔をして椅子に座っていた。そこにいたことに安堵したが、目的は会うことじゃない。二手に別れていた2人もこちらに来た。おれは走り回っている間、池永先生に話をした途端にもしかしたら怒鳴られるんじゃないかと少し不安になっていた。もしかしたらこの判断は間違っていたかも、こんなお願い通じる訳ないのかも、黙ってそのまま元の作戦を決行した方がよかったのかも、とまた臆病になっていた。恐る恐る、事の経緯を説明した。かずまはもうすぐ近くまで来ていることも話をした。池永先生はおれの目を見てただじっと話を聴いてくれた。おれは、話の途中で絶対何を言ってるんだと反対されると思っていた。おれは最後まで話を聴いてもらえたことに驚いていた。話を聴き終えた池永先生は「うーーん…」とわかりやすく困った表情をした。どっちだ?みんなじっと池永先生を見ていた。「これは、おれ1人の判断で許可できるものではないから、難しい。でも、学年主任と教頭に、おれから頼んでみる」と池永先生は言った。「マジすか!?」とおれたちの中の誰かが言った。おれたちはまだかずまが出れると決まった訳じゃないのに喜んだ。池永先生がそう言ってくれたことが本当に嬉しかった。「出れるって訳じゃないし、凄く難しいことやからな。おれが頼んでも難しいと思うから、覚悟はしといてや。」と、池永先生はまた少し笑いながら真剣な目でおれらに言った。「はい!お願いします!」おれらは教室を出た。「いい先生やな」と翔太が言った。おれは少し誇らしげだった。ただ安心している時間はない。ステージ袖に戻り急いでかずまに連絡してどうなったか話をした。一応、かずまが出れなかったときのために頼んでいたベーシストにもライブに出る準備をしてもらっていた。すると学年主任がこちらに走ってきた。後ろから、池永先生も歩いてこちらに来た。学年主任は池永先生から話を聞いたようだった。「話は聞きました。気持ちは凄くわかる。けどな、校則でそれは許されへんねん。もしお前らを許したら、その次また同じようなことがあったらそいつらはどうするねんってなるやろ。お前らだけ特別にするわけにはいかへんねん。申し訳ないけど、許可はできひん。」大正論だった。心の準備はしていたがどこか期待していた部分もあった。ショックだった。「でも、かずまは近くまで来てるんよな。特別に、中庭に入ることは許したる。ステージに立つことは許されへんけど、横で見るのは許したる。」と言った。おれたちは複雑な気持ちだった。池永先生が申し訳なさそうにこちらを見ていた。「ごめんな。あかんかった。」池永先生が言った。あとから、池永先生ほんとに必死に頭下げてたよって、それをたまたま見ていた友だちから話を聞いた。おれはそのとき池永先生のこのときの顔を思い出してまた泣きそうになった。そんな先生いるんだって、不思議な気持ちになった。

いよいよ出番直前になったとき、中庭のステージ袖にかずまの担任だった大久保先生が来た。大久保先生はおれを見るなりいきなり肩を掴んで「増子、かずま来てるってほんまか!?もっと早くに言うてくれてたら、なんとかできたかも知らへんかったのに、なんで言うてくれへんかったんや!!」と目頭を熱くしながら強い言葉でおれに言った。おれは一瞬パニックになった。なんなんだ、相談なんて、していいと思うわけないじゃないか。みんなずるい、終わってからそんなこと言うな。頼ってよかったのならおれだってそうしとけばよかったって思う。"もっと早くに言ってくれ"はこっちのセリフだ。そんなことを思ったが、あまりの先生の本気具合と嘘1つない瞳に圧倒され、ごめんなさいの一言しか出なかった。先生はおれに、かずまを呼んでくれてありがとう、と小さな声で強く言った。

おれたちはいつもと違う5人でステージに上がった。客席にはかずまがいた。必死に練習したRADWIMPSの曲を演奏した。ライブのことはあまり覚えていない。

 ライブが終わり、文化祭1日目も終わり、その日は教室に戻ってホームルームがあった。おれはホームルームが始まるまで廊下で友だちと喋っていた。すると廊下の向こうからかずまの姿が見えた。かずまのクラスは10組、おれのクラスは9組で隣だった。少し恥ずかしそうにかずまが教室に入った。するとかずま!?という何人もの大きな声が聞こえた。10組のみんなはかずまが来ていたことを当たり前だが知らなかった。10組はしばらくガヤガヤと賑やかだった。かずまは愛されてるなと思った。教室に響き渡る沢山の嬉しそうな声を聞いたとき、あのとき池永先生に相談するという選択をしてよかったと初めて思った。

この日で教師の見方が少し変わった。これからもきっと忘れない、高3の秋の話。

 

2017.09.12

朝、機材車はいつも通りなおてぃーの運転で奈良から広島へ向かう。車内は全員がイヤホンを付け、会話はない。ツアーを何本か付いてきてくれる照明のちえみちゃんも車に乗っていたがもうこの様子には慣れたようでみんなと同じようにイヤホンを付けていた。おれは睡眠、読書、iPhoneを触るをただ欲のままに繰り返していた。そうしている間に広島へ到着した。なおてぃーにはいつも感謝している。先に断っておくが運転をさせているわけでは決してない。全員運転免許は持っている。これはあくまで彼の意志なのだ。彼は人の運転で酷く車酔いする。あと彼は天性の心配性なので助手席で落ち着いて寝ることがあまりできないらしい。なので必然的に彼が運転をしている。これはあくまで彼の意志なのだ。

広島へ着きリハーサルを終え、タワーレコードへ挨拶に行った。店長さんらしき人が後から出てきてくれて、「お久しぶりです」という、発する人によっては一瞬で冷や汗をかく言葉を発した。一瞬で記憶を遡ったがまったくどこで会ったか思い出せず少し冷や汗をかいた。おれたちは3人ともおそらく同じことを思っていた。結局誰だったのかわからないまま軽く挨拶を交わして展開場所で写真を撮ってもらった。マイヘアの展開場所の右下に、サブで置かれるにはあまりに目立ちすぎるジャケットのCDが窮屈そうに置かれていた。マイヘアの展開場所に便乗するかのように置かれることは多い。もうあまりなんとも思わないと言うと嘘になるが、マイヘアのことは大好きなのでやはりあまりなんとも思わない。と言うと嘘にはなる。やはり堂々とメインで展開をされていたい。ただそうなるにはまだ圧倒的に売れていない。だからこれは仕方がない、そういう意味では本当にあまりなんとも思わない。タワレコを出てからは各自自由に散る。ゆっくり本を読める場所を探して広島の街を歩いた。途中でいい感じの公園を見つけたのでそこでしばらく本を読んでいたが気がつくと睡魔と戦っていたのとスタート時間の10分前になっていたので立ち上がってライブハウスへ戻った。出てくれた対バンのライブを見て、おれたちの出番になった。出番前にえーすけが「ツアー初日です、よろしくぅー」とボソボソっと言い放ち、SEの流れる薄暗いステージへ向かった。本編を終え、アンコールまで終え、汗でビショビショ満身創痍の中楽屋に戻ると、拍手の音がまた一定のテンポを刻み出し鳴り止まなかった。初めて自分たちのライブでダブルアンコールというものを見た。2回目は出ない、ということだったので、感謝と疲労と感動と、いろいろな感情の中、鳴り止まない拍手を楽屋でただ聞いていた。客電がつき、フロアへ降りて少しお客さんと話しをした。Hump BackのTシャツを着たおじさんが、「仕事サボってきました」と言っていた。東京から来たと言っていた2人組の女の子が「飛行機乗り遅れて、お金無駄になっちゃったんですけど、新幹線で来ました」と言っていた。純粋に嬉しかった。当たり前のことだが、一本一本、死ぬ気でやろうと強く思った。機材を搬出し、コンビニで飯を買ってホテルで食べた。風呂に入りこの日iPhoneで撮ってもらっていたライブ動画をベッドの上で確認していたら寝落ちしていた。今日は高松。なんの変哲も無い水曜日、奈良の同級生たちはおそらく働いている。大学の友だちたちは子どもたちに授業をしている。バイト先の居酒屋の店長は出勤時間ギリギリまでたぶん寝ている。おれは高松でドラムを叩く。見に来てくれる人がいる。今日も一生懸命、ドラムを叩く。

 

2017.09.11

9月に入って気温が少し下がった。消えた火薬の匂いはいつの間にかしなくなったが蝉はまだ鳴いている。しっかりと米をつけた稲は今か今かと収穫の時を待っている。あれを見るたびいつも農家の人たちの姿が目に浮かぶ。あれは努力の結晶だ。あんなに綺麗なものがずっと家の近くに沢山あったのに今まで気付かなかった。24歳になったからかなと半ば適当に納得していた。

バイト先の高校生がバンド好きなんですと話しかけてきた。「マンウィズとかワンオクとか好きなんすよ」と言っていた。「やばTはもうちょい売れてもいいと思うんすよねぇ、なんかまだ売れてない感じしますよね」ともうここまできたら可愛い。そうなんかなぁと適当に相槌を打った。おれが高校生の頃、凛として時雨を聞いていることがカッコいいと思っていたし、ホルモンとかも全然聞けちゃいます、良さわかってます、みたいな感じだった。たぶんあいつもそんな感じだ。可愛いもんだ。

日付は変わり、バイトから帰ってきて明日から始まるツアーの準備をした。お守りもしっかり持った。お客さんが心配してこの前くれた錠剤タイプのウコンもカバンに入れた。スティック、服、その他諸々、必要なものをカバンに詰め込んだ。いつもワクワクする。いつまでもこの気持ちを忘れたくない。早く寝よう。

 

 

2017.08.29

朝6時、重たい瞼を擦りながらテレビの前でご飯を食べていた。テレビは突然見たことのない画面に変わり、さっきまでニュースを淡々と読んでいたアナウンサーが何度も同じ言葉を繰り返し出した。画面には国民保護に関する情報と書かれていた。どのチャンネルに変えても同じ画面だった。異様な光景に目は完全に覚めていた。北朝鮮がミサイルを発射した。対象地域に福島県が含まれているのを見て、胸がざわついた。父さんも婆ちゃんもいる。テレビの前のおれは、ただ心配することしかできなかった。婆ちゃん家の近くには、すぐに避難できるような建物はない。田舎のほとんどはきっとそうだ。避難できるような建物なんて近くにはない。ミサイルが落ちてこないことをただ願うことしかできない。なんて無力で、日々はこんなにも急に奪われる可能性があるのかと、少し怖くなった。それでもバイトには行かないといけない。ミサイルが本当に堕ちるのかどうかも確認できないまま、原付を走らせた。駅前の朝は普段と何も変わらなかった。学生、サラリーマン、当たり前の平和に今日も溶けていく。夜、バイト終わりに父から電話がかかってきた。久しぶりに少し会話をした。父はおれに「やり切らなくていいから、とことんやれ」とおそらく少し微笑みながら、最後に言い電話を切った。帰りの原付は半袖だと少し寒かった。道路で蝉が死んでいた。赤とんぼをよく見るようになった。夏が終わろうとしている。

 

 

 

 

 

 

2017.08.16

福島にいる父から手紙が届いた。内容はRIVER聞いたぞということと、PV80回は見たということと、おれがバンドで10月福島に行くことをネットで知った父さんが婆ちゃんに「央人10月にライブしに来るらしいぞ」と伝えたら、「んじゃ、行ぐが」と真顔で言ってきて戸惑いました、という内容だった。婆ちゃん来たら爆音で死んじゃうんじゃないかと心配になった。これで焼肉でも食えって、封筒の中に一万円が入っていた。24にもなって父から小遣いを貰うなんて恥ずかしいが、生活的に結構有り難かった。すぐに財布に入れた。手紙とは別に、冊子が入っていた。今年83歳になる婆ちゃんは若かった頃、新聞にコラムを半年ほど掲載していたらしい。そのときのコラムを父がまとめて、おれに送ってきた。婆ちゃんがそんなことしていたのは初めて知った。その文章を読んでみると、婆ちゃんが必死に駆け抜けた昭和の風景が頭の中に広がった。文字から人柄がにじみ出ていた。おそらく40歳ぐらいの頃に書いていたもので、1人の農家の主婦が一生懸命がむしゃらに生きる姿が書かれていた。凄く好きな文章だった。おれが文章が好きなのは婆ちゃんからきていたのかなと1人勝手に納得していた。文字からはその人の生きていた景色やその人の性格が滲み出る。文章を読んでおれがまだ産まれてもない頃の婆ちゃんの生活を見れた気がして少し嬉しかった。婆ちゃんのことが更に好きになった。おれもこれからも適当に書いていこうと思った。